哀しみのバラード

彼が青森発函館往き青函連絡船摩周丸から津軽海峡で投身してから45年が過ぎた。
もう誰もが忘れ去ってしまった。そんな年月だ。
あのころまだ若かった私も齢、70を越えた。
哀しみを載せながら運行されていた青函連絡船はとうの昔に廃止されて、青森港と函館港に2隻が記念館として残されているのみだ。青函トンネルが運用開始されてからはや30年、今や新幹線が北海道との道すじになっている。
彼の面影はおろか、私さえその存在が消えかかっているこの晩年に、今一度、彼のことを振り返ってみたい。

彼は、五所川原市のリンゴ農家の二男坊だった。私とは高校が一緒で、ギターにのめりこみ、フォークデュオを組んで一緒に歌った仲だ。彼には兄がいるわけで、家督を継ぐ必要はないので、好きなことをやれるんだと、豪語していた。
私の父は国鉄職員で、私は長男だったが、継がねばならないなにものも持ち合わせてはいなかったので、彼以上に自由だった。
秋の収穫期には、彼の実家でリンゴ収穫作業のアルバイトをした。リンゴの収穫時期はとてつもなく短い。短期間で収穫されたリンゴはもみ殻で隙間を埋めて木箱に詰められ、専用の倉庫で大切に保管され、場合によっては越年する。都会の消費者が春でも美味しいリンゴにありつけるのはそうしたリンゴ農家の努力のおかげである。私はといえば、友人宅の稼業でストレスのないアルバイトにありつけ、新しいギターを買うための資金を作れるのだから願ったりかなったりだった。

高校を卒業し、私も彼も、示し合わせたように仙台の大学へ進学した。そしてまた、フォークとギターにのめりこんだ青春を謳歌していた。
だが、その年の秋、青森県を強風を伴った台風が襲い、彼の実家の農場では、収穫目前のリンゴが全滅した。彼の兄は前年から代を引き継ぎ、大規模な設備投資をしていたが無理な借金のせいで、彼の生家は破産の憂き目にあう。結果、兄は重責を背負いきれず、農園のリンゴの老木で首を吊った。
大学2回生進級を目前に、彼は大学のキャンパスを去っていった。

実家に戻った彼は、家と農園の再興に奔走したらしい。
ただ、私からの電話や手紙には一度も応えてくれなかった。
数年後、大学を卒業し、就職した私に悲しい知らせが届いた。
どうやら、彼が連絡船から投身し、自死したようだと・・・。
農園の再興に尽力した彼をそこまで追い込んだのは、近隣の別の農家を発生源とする病害虫によるリンゴの出荷停止と、農協の融資中断、そしてそれを悲観した恋人との離別だったらしい。結婚を約束した恋人は彼を見限って、他の男性のもとへ嫁いでしまった。

絶望した彼に、未来が見えることはなかった。
彼を救うことができなかったわたしには、その時の哀しみがまとわりついて離れない。

そして、こんなにも時は経ってしまった。

あの時と同じ進路で台風が近づいている。
あんな悲劇はもう嫌だ。

根田成一様、これをお読みになられたら、ご一報くださいますようお願い申し上げます。


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